三

 猪熊(いのくま)のばばに別れた太郎は、時々扇で風を入れながら、日陰も選ばず、朱雀(すざく)の大路(おおじ)を北へ、進まない歩みをはこんだ。――
 日中の往来は、人通りもきわめて少ない。栗毛(くりげ)の馬に平文(ひらもん)の鞍(くら)を置いてまたがった武士が一人、鎧櫃(よろいびつ)を荷なった調度掛(ちょうどが)けを従えながら、綾藺笠(あやいがさ)に日をよけて、悠々(ゆうゆう)と通ったあとには、ただ、せわしない燕(つばくら)が、白い腹をひらめかせて、時々、往来の砂をかすめるばかり、板葺(いたぶき)、檜皮葺(ひわだぶき)の屋根の向こうに、むらがっているひでり雲(ぐも)も、さっきから、凝然と、金銀銅鉄を熔(と)かしたまま、小ゆるぎをするけしきはない。まして、両側に建て続いた家々は、いずれもしんと静まり返って、その板蔀(いたじとみ)や蒲簾(かますだれ)の後ろでは、町じゅうの人がことごとく、死に絶えてしまったかとさえ疑われる。――

 猪熊(いのくま)のばばの言ったように、沙金(しゃきん)を 次郎に奪われるという恐れは、ようやく目の前に迫って来た。あの女が、――現在養父にさえ、身を任せたあの女が、あばたのある、片目の、醜いおれを、日に こそ焼けているが目鼻立ちの整った、若い弟に見かえるのは、もとよりなんの不思議もない。おれは、ただ、次郎が、――子供の時から、おれを慕ってくれたあ の次郎が、おれの心もちを察してくれて、よしや沙金のほうから手を出してもその誘惑に乗らないだけの、慎みを持ってくれる事と、いちずに信じ切っていた。 が、今になって考えれば、それは、弟を買いかぶった、虫のいい量見(りょうけん)に過ぎなかった。いや、弟を見上げすぎたというよりも、沙金のみだらな媚(こ)びのたくみを、見下げすぎた誤りだった。ひとり次郎ばかりではない。あの女のまなざし一つで、身を滅ぼした男の数は、この炎天にひるがえる燕(つばくら)の数(かず)よりも、たくさんある。現にこう言うおれでさえ、ただ一度、あの女を見たばかりで、とうとう今のように、身をおとした。……

 すると四条坊門(しじょうぼうもん)の辻(つじ)を、南へやる赤糸毛(あかいとげ)の女車(おんなぐるま)が、静かに太郎の行く手を通りすぎる。車の中の人は見えないが、紅(べに)の裾濃(すそご)に染めた、すずしの下簾(したすだれ)が、町すじの荒涼としているだけに、ひときわ目に立ってなまめかしい。それにつき添った牛飼いの童(わらべ)と雑色(ぞうしき)とは、うさんらしく太郎のほうへ目をやったが、牛だけは、角(つの)をたれて、漆のように黒い背を鷹揚(おうよう)にうねらしながら、わき見もせずに、のっそりと歩いてゆく。しかしとりとめのない考えに沈んでいる太郎には、車の金具の、まばゆく日に光ったのが、わずかに目にはいっただけである。
 彼は、しばらく足をとめて、車を通りこさせてから、また片目を地に伏せて、黙々と歩きはじめた。――

(おれが右の獄(ひとや)の放免(ほうめん)を していた時の事を思えば、今では、遠い昔のような、心もちがする。あの時のおれと今のおれとを比べれば、おれ自身にさえ、同じ人間のような気はしない。あ のころのおれは、三宝を敬う事も忘れなければ、王法にしたがう事も怠らなかった。それが、今では、盗みもする。時によっては、火つけもする。人を殺した事 も、二度や三度ではない。ああ、昔のおれは――仲間の放免といっしょになって、いつもの七半(しちはん)を打ちながら、笑い興じていた、あの昔のおれは、今のおれの目から見ると、どのくらいしあわせだったかわからない。
 考えれば、まだきのうのように思われるが、実はもう一年前(まえ)になった。――あの女が、盗みの咎(とが)で、検非違使(けびいし)の手から、右の獄(ひとや)へ送られる。おれがそれと、ふとした事から、牢格子(ろうごうし)を隔てて、話し合うような仲になる。それから、その話が、だんだんたび重なって、いつか互いに身の上の事まで、打ち明け始める。とうとう、しまいには、猪熊(いのくま)のばばや同類の盗人が、牢(ろう)を破ってあの女を救い出すのを、見ないふりをして、通してやった。
 その晩から、おれは何度となく、猪熊のばばの家へ出はいりをした。沙金(しゃきん)は、おれの行(ゆ)く時刻を見はからって、あの半蔀(はじとみ)の間から、雀色時(すずめいろどき)の往来をのぞいている。そうしておれの姿が見えると、鼠鳴(ねずみな)きをして、はいれと言う。家の中には、下衆女(げすおんな)の阿濃(あこぎ)のほかに、たれもいない。やがて、蔀(しとみ)をおろす。結び燈台へ火をつける。そうして、あの何畳かの畳の上に、折敷(おしき)や高坏(たかつき)を、所狭く置きならべて、二人ぎりの小酒盛(こざかもり)をする。そのあげくが、笑ったり、泣いたり、けんかをしたり、仲直りをしたり――言わば、世間並みの恋人どうしが、するような事をして、いつでも夜を明かした。
 日の暮れに来て、夜(よ)のひき明け方に帰る。――あれが、それでも一月(ひとつき)は続いたろう。そのうちに、おれには沙金が猪熊のばばのつれ子である事、今では二十何人かの盗人の頭(かしら)になって、時々洛中(らくちゅう)をさわがせている事、そうしてまた、日ごろは容色を売って、傀儡(くぐつ)同 様な暮らしをしている事――そういう事が、だんだんわかって来た。が、それは、かえってあの女に、双紙の中の人間めいた、不思議な円光をかけるばかりで、 少しも卑しいなどという気は起こさせない。無論、あの女は、時々おれに、いっそ仲間へはいれと言う。が、おれはいつも、承知しない。すると、あの女は、お れの事を臆病(おくびょう)だと言って、ばかにする。おれはよくそれで、腹を立てた。………)

「はい、はい」と馬をしかる声がする。太郎は、あわてて、道をよけた。
 米俵を二俵ずつ、左右へ積んだ馬をひいて、汗衫(かざみ)一つの下衆(げす)が、三条坊門の辻(つじ)を曲がりながら、汗もふかずに、炎天の大路(おおじ)を南へ下って来る。その馬の影が、黒く地面に焼きついた上を、燕(つばくら)が一羽、ひらり羽根を光らせて、すじかいに、空(そら)へ舞い上がった。と思うと、それがまた礫(つぶて)を投げるように、落として来て、太郎の鼻の先を一文字に、向こうの板庇(いたびさし)の下へはいる。
 太郎は、歩きながら、思い出したように、はたはたと、黄紙(きがみ)の扇を使った。――

(そういう月日が、続くともなく続くうちに、おれは、偶然あの女と養父との関係に、気がついた。もっともおれ一人が、沙金(しゃきん)を自由にする男でないという事も、知っていなかったわけではない。沙金自身さえ、関係した公卿(くげ)の名や法師の名を、何度も自慢らしくおれに話した事がある。が、おれはこう思った。あの女の肌(はだ)は、おおぜいの男を知っているかもしれない。けれども、あの女の心は、おれだけが占有している。そうだ、女の操(みさお)は、からだにはない。――おれは、こう信じて、おれの嫉妬(しっと)をおさえていた。もちろんこれも、あの女から、知らず知らずおれが教わった、考え方にすぎないかもしれない。が、ともかくもそう思うと、おれの苦しい心はいくぶんか楽(らく)になった。しかし、あの女と養父との関係は、それとちがう。
 おれは、それを感づいた時に、なんとも言えず、不快だった。そういう事をする親子なら、殺して飽きたらない。それを黙って見る実の母の、猪熊(いのくま)のばばもまた、畜生より、無残なやつだ。こう思ったおれは、あの酔いどれのおやじの顔を見るたびに、何度太刀(たち)へ 手をかけたか、わからない。が、沙金はそのたびに、おれの前で、ことさら、手ひどく養父をばかにした。そうしてその見え透いた手くだがまた、不思議におれ の心を鈍らせた。「わたしはおとうさんがいやでいやでしかたがないんです」と言われれば、養父をにくむ気にはなっても、沙金をにくむ気には、どうしてもな れない。そこで、おれと養父とは、きょうがきょうまで、互いににらみ合いながら、何事もなくすぎて来た。もしあのおじじにもう少し、勇気があったなら、 ――いや、おれにもう少し、勇気があったなら、おれたちはとうの昔、どちらか死んでいた事であろう。……)

 頭を上げると、太郎はいつか二条を折れて、耳敏川(みみとがわ)にまたがっている、小さい橋にかかっていた。水のかれた川は、細いながらも、焼(や)き太刀(だち)のように、日を反射して、絶えてはつづく葉柳(はやなぎ)と家々との間に、かすかなせせらぎの音を立てている。その川のはるか下に、黒いものが二つ三つ、鵜(う)の鳥かと思うように、流れの光を乱しているのは、おおかた町の子供たちが、水でも浴びているのであろう。
 太郎の心には、一瞬の間、幼かった昔の記憶が、――弟といっしょに、五条の橋の下で、鮠(はえ)を釣(つ)った昔の記憶が、この炎天に通う微風のように、かなしく、なつかしく、返って来た。が、彼も弟も、今は昔の彼らではない。
 太郎は、橋を渡りながら、うすいあばたのある顔に、また険しい色をひらめかせた。――

(すると、突然ある日、そのころ筑後(ちくご)の前司(ぜんじ)の小舎人(ことねり)になっていた弟が、盗人の疑いをかけられて、左の獄(ひとや)へ入れられたという知らせが来た。放免(ほうめん)をしているおれには、獄中の苦しさが、たれよりもよく、わかっている。おれは、まだ筋骨のかたまらない弟の身の上を、自分の事のように、心配した。そこで、沙金(しゃきん)に相談すると、あの女はさもわけがなさそうに、「牢(ろう)を破ればいいじゃないの」と言う。かたわらにいた猪熊(いのくま)のばばも、しきりにそれをすすめてくれる。おれは、とうとう覚悟をきめて、沙金といっしょに、五六人の盗人を語り集めた。そうして、その夜のうちに、獄(ひとや)をさわがして、難なく弟を救い出した。その時、受けた傷の跡は、今でもおれの胸に残っている。が、それよりも忘れられないのは、おれがその時始めて、放免(ほうめん)の一人を切り殺した事であった。あの男の鋭い叫び声と、それから、あの血のにおいとは、いまだにおれの記憶を離れない。こう言う今でも、おれはそれを、この蒸し暑い空気の中に、感じるような心もちがする。
 その翌日から、おれと弟とは、猪熊の沙金の家で、人目を忍ぶ身になった。一度罪を犯したからは、正直に暮らすのも、あぶない世渡りをしてゆくのも、検非違使(けびいし)の 目には、変わりがない。どうせ死ぬくらいなら、一日も長く生きていよう。そう思ったおれは、とうとう沙金の言うなりになって、弟といっしょに盗人の仲間入 りをした。それからのおれは、火もつける。人も殺す。悪事という悪事で、なに一つしなかったものはない。もちろん、それも始めは、いやいやした。が、して みると、意外に造作(ぞうさ)がない。おれはいつのまにか、悪事を働くのが、人間の自然かもしれないと思いだした。……)

 太郎は、半ば無意識に辻(つじ)をまがった。辻には、石でまわりを積んだ一囲いの土饅頭(どまんじゅう)があって、その上に石塔婆(せきとうば)が二本、並んで、午後の日にかっと、照りつけられている。その根元にはまた、何匹かのとかげが、煤(すす)のように黒いからだを、気味悪くへばりつかせていたが、太郎の足音に驚いたのであろう、彼の影の落ちるよりも早く、一度にざわめきながら、四方へ散った。が、太郎は、それに目をやるけしきもない。――
「おれは、悪事をつむに従って、ますます沙金(しゃきん)に愛着(あいじゃく)を感じて来た。人を殺すのも、盗みをするのも、みんなあの女ゆえである。――現に牢(ろう)を破ったのさえ、次郎を助けようと思うほかに、一人の弟を見殺しにすると、沙金にわらわれるのを、おそれたからであった。――そう思うと、なおさらおれは、何に換えても、あの女を失いたくない。
 その沙金を、おれは今、肉身の弟に奪われようとしている。おれが命を賭(か)けて助けてやった、あの次郎に奪われようとしている。奪われようとしているのか、あるいは、もう奪われているのか、それさえも、はっきりはわからない。沙金(しゃきん)の心を疑わなかったおれは、あの女がほかの男をひっぱりこむのも、よくない仕事の方便として、許していた。それから、養父との関係も、あのおじじが親の威光で、何も知らないうちに、誘惑したと思えば、目をつぶって、すごせない事はない。が、次郎との仲は、別である。
 おれと弟とは、気だてが変わっているようで、実は見かけほど、変わっていない。もっとも顔かたちは、七八年前(まえ)の痘瘡(もがさ)が、おれには重く、弟には軽かったので、次郎は、生まれついた眉目(みめ)を そのままに、うつくしい男になったが、おれはそのために片目つぶれた、生まれもつかない不具になった。その醜い、片目のおれが、今まで沙金の心を捕えてい たとすれば、(これも、おれのうぬぼれだろうか。)それはおれの魂の力に相違ない。そうして、その魂は、同じ親から生まれた弟も、おれに変わりなく持って いる。しかも、弟は、たれの目にもおれよりはうつくしい。そういう次郎に、沙金が心をひかれるのは、もとより理の当然である。その上また、次郎のほうで も、おれにひきくらべて考えれば、到底あの女の誘惑に、勝てようとは思われない。いや、おれは、始終おれの醜い顔を恥じている。そうして、たいていの情事 には、おのずからひかえ目になっている。それでさえ、沙金には、気違いのように、恋をした。まして、自分の美しさを知っている次郎が、どうして、あの女の 見せる媚(こ)びを、返さずにいられよう。――
 こう思えば、次郎と沙金(しゃきん)と が、近づくようになるのは、無理もない。が、無理がないだけ、それだけ、おれには苦痛である。弟は、沙金をおれから奪おうとする。――それも、沙金の全部 を、おれから奪おうとする。いつかは、そうして必ず。ああ、おれの失うのは、ひとり沙金ばかりではない。弟もいっしょに失うのだ。そうして、そのかわり に、次郎と言う名の敵(かたき)ができる。――おれは、敵(かたき)には用捨しない。敵(かたき)も、おれに用捨はしないだろう。そうなれば、落ち着くところは、今からあらかじめわかっている。弟を殺すか、おれが殺されるか。……)

 太郎は、死人(しびと)のにおいが、鋭く鼻を打ったのに、驚いた。が、彼の心の中の死が、におったというわけではない。見ると、猪熊(いのくま)の小路のあたり、とある網代(あじろ)の塀(へい)の下に腐爛(ふらん)した子供の死骸(しがい)が二つ、裸のまま、積み重ねて捨ててある。はげしい天日(てんぴ)に、照りつけられたせいか、変色した皮膚のところどころが、べっとりと紫がかった肉を出して、その上にはまた青蝿(あおばえ)が、何匹となく止まっている。そればかりではない。一人の子供のうつむけた顔の下には、もう足の早い蟻(あり)がついた。――
 太郎は、まのあたりに、自分の行く末を見せつけられたような心もちがした。そうして、思わず下くちびるを堅くかんだ。――
「ことに、このごろは、沙金(しゃきん)もおれを避けている。たまに会っても、いい顔をした事は、一度もない。時々はおれに面(めん)と向かって、悪口(あっこう)さえきく事がある。おれはそのたびに腹を立てた。打った事もある。蹴(け)った事もある。が、打っているうちに、蹴っているうちに、おれはいつでも、おれ自身を折檻(せっかん)しているような心もちがした。それも無理はない。おれの二十年の生涯(しょうがい)は、沙金のあの目の中に宿っている。だから沙金を失うのは、今までのおれを失うのと、変わりはない。
 沙金を失い、弟を失い、そうしてそれとともにおれ自身を失ってしまう。おれはすべてを失う時が来たのかもしれない。……)

 そう思ううちに、彼は、もう猪熊(いのくま)のばばの家の、白い布をぶら下げた戸口へ来た。まだここまでも、死人(しびと)のにおいは、伝わって来るが、戸口のかたわらに、暗い緑の葉をたれた枇杷(びわ)があって、その影がわずかながら、涼しく窓に落ちている。この木の下を、この戸口へはいった事は、何度あるかわからない。が、これからは?
 太郎は、急にある気づかれを感じて、一味の感傷にひたりながら、その目に涙をうかべて、そっと戸口へ立ちよった。すると、その時である。家の中から、たちまちけたたましい女の声が、猪熊(いのくま)の爺(おじ)の声に交じって、彼の耳を貫ぬいた。沙金(しゃきん)なら、捨ててはおけない。
 彼は、入り口の布をあげて、うすぐらい家の中へ、せわしく一足ふみ入れた。

       四

 猪熊のばばに別れると、次郎は、重い心をいだきながら、立本寺(りゅうほんじ)の門の石段を、一つずつ数えるように上がって、そのところどころ剥落(はくらく)した朱塗りの丸柱の下へ来て、疲れたように腰をおろした。さすがの夏の日も、斜めにつき出した、高い瓦(かわら)にさえぎられて、ここまではさして来ない。後ろを見ると、うす暗い中に、一体の金剛力士が青蓮花(あおれんげ)を踏みながら、左手の杵(きね)を高くあげて、胸のあたりに燕(つばくら)の糞(ふん)をつけたまま、寂然(せきぜん)と境内(けいだい)の昼を守っている。――次郎は、ここへ来て、始めて落ち着いて、自分の心もちが考えられるような気になった。
 日の光は、相変わらず目の前の往来を、照り白(しら)ませて、その中にとびかう燕(つばくら)の羽を、さながら黒繻子(くろじゅす)か何かのように、光らせている。大きな日傘(ひがさ)をさして、白い水干(すいかん)を着た男が一人、青竹の文挾(ふばさみ)にはさんだ文(ふみ)を持って、暑そうにゆっくり通ったあとは、向こうに続いた築土(ついじ)の上へ、影を落とす犬もない。
 次郎は、腰にさした扇をぬいて、その黒柿(くろがき)の骨を、一つずつ指で送ったり、もどしたりしながら、兄と自分との関係を、それからそれへ、思い出した。――
 なんで自分は、こう苦しまなければ、ならないのであろう。たった一人の兄は、自分を敵(かたき)のように思っている。顔を合わせるごとに、こちらから口をきいても、浮かない返事をして、話の腰を折ってしまう。それも、自分と沙金(しゃきん)と が、今のような事になってみれば、無理のない事に相違ない。が、自分は、あの女に会うたびに、始終兄にすまないと思っている。別して、会ったのちのさびし い心もちでは、よく兄がいとしくなって、人知れない涙もこぼしこぼしした。現に、一度なぞは、このまま、兄にも沙金にも別れて、東国へでも下ろうとさえ、 思った事がある。そうしたら、兄も自分を憎まなくなるだろうし、自分も沙金を忘れられるだろう。そう思って、よそながら暇(いとま)ごいをするつもりで、兄の所へ会いにゆくと、兄はいつも、そっけなく、自分をあしらった。そうして、沙金に会うと、――今度は自分が、せっかくの決心を忘れてしまう。が、そのたびに、自分はどのくらい、自分自身を責めた事であろう。
 しかし、兄には、自分のこの苦しみがわからない。ただいちずに、自分を、恋の敵(かたき)だ と思っている。自分は、兄にののしられてもいい。顔につばきされてもいい。あるいは場合によっては、殺されてもいい。が、自分が、どのくらい自分の不義を 憎んでいるか、どのくらい兄に同情しているか、それだけは、察していてもらいたい。その上でならば、どんな死にざまをするにしても、兄の手にかかれば、本 望だ。いや、むしろ、このごろの苦しみよりは、一思いに死んだほうが、どのくらいしあわせだかわからない。
 自分は、沙金(しゃきん)に 恋をしている。が、同時に憎んでもいる。あの女の多情な性質は、考えただけでも、腹立たしい。その上に、絶えずうそをつく。それから、兄や自分でさえため らうような、ひどい人殺しも、平気でする。時々、自分は、あの女のみだらな寝姿をながめながら、どうして、自分がこんな女に、ひかされるのだろうと思った りした。ことに、見ず知らずの男にも、なれなれしく肌(はだ)を任せるのを見た時には、いっそ自分の手で、殺してやろうかという気にさえなった。それほど、自分は、沙金を憎んでいる。が、あの女の目を見ると、自分はやっぱり、誘惑に陥ってしまう。あの女のように、醜い魂と、美しい肉身とを持った人間は、ほかにいない。
 この自分の憎しみも、兄にはわかっていないようだ。いや、元来兄は、自分のように、あの女の獣のような心を、憎んではいないらしい。たとえば、沙金(しゃきん)とほかの男との関係を見るにしても、兄と自分とは全く目がちがう。兄は、あの女がたれといっしょにいるのを見ても、黙っている。あの女の一時の気まぐれは、気まぐれとして、許しているらしい。が、自分は、そういかない。自分にとっては、沙金が肌身(はだみ)を汚(けが)す事は、同時に沙金が心を汚す事だ。あるいは心を汚すより、以上の事のように思われる。もちろん自分には、あの女の心が、ほかの男に移るのも許されない。が、肌身をほかの男に任せるのは、それよりもなお、苦痛である。それだからこそ、自分は兄に対しても、嫉妬(しっと)をする。すまないとは思いながら、嫉妬をする。してみると、兄と自分との恋は、まるでちがう考えが、元になっているのではあるまいか。そうしてそのちがいが、よけい二人の仲を、悪くするのではあるまいか。………
 次郎は、ぼんやり往来をながめながら、こんな事をしみじみと考えた。すると、ちょうどその時である。突然、けたたましい笑い声が、まばゆい日の光を動かして、往来のどちらかから聞こえて来た。と思うと、かん高(だか)い女の声が、舌のまわらない男の声といっしょになって、人もなげに、みだらな冗談を言いかわして来る。次郎は、思わず扇を腰にさして、立ち上がった。
 が、柱の下をはなれて、まだ石段へ足をおろすかおろさないうちに、小路(こうじ)を南へ歩いて来た二人の男女(なんにょ)が、彼の前を通りかかった。
 男は、樺桜(かばざくら)の直垂(ひたたれ)に梨打(なしうち)の烏帽子(えぼし)をかけて、打ち出しの太刀(たち)を濶達(かったつ)に佩(は)いた、三十ばかりの年配で、どうやら酒に酔っているらしい。女は、白地にうす紫の模様のある衣(きぬ)を着て、市女笠(いちめがさ)に被衣(かずき)をかけているが、声と言い、物ごしと言い、紛れもない沙金(しゃきん)である。――次郎は、石段をおりながら、じっとくちびるをかんで、目をそらせた。が、二人とも、次郎には、目をかける様子がない。
「じゃよくって。きっと忘れちゃいやよ。」
「大丈夫だよ。おれがひきうけたからは、大船(おおぶね)に乗った気でいるがいい」
「だって、わたしのほうじゃ命がけなんですもの。このくらい、念を押さなくちゃしようがないわ。」
 男は赤ひげの少しある口を、咽(のど)まで見えるほど、あけて笑いながら、指で、ちょいと沙金の頬(ほお)を突っついた。
「おれのほうも、これで命がけさ。」
「うまく言っているわ。」
 二人は、寺の門の前を通りすぎて、さっき次郎が猪熊(いのくま)のばばと別れた辻(つじ)ま で行くと、そこに足をとめたまましばらくは、人目も恥じず、ふざけ合っていたが、やがて、男は、振りかえり振りかえり、何かしきりにからかいながら、辻を 東へ折れてしまう。女は、くびすをめぐらして、まだくすくす笑いながら、またこっちへ帰って来る。――次郎は、石段の下にたたずんで、うれしいのか情けな いのか、わからないような感情に動かされながら、子供らしく顔を赤らめて、被衣(かずき)の中からのぞいている、沙金(しゃきん)の大きな黒い目を迎えた。
「今のやつを見た?」
 沙金は、被衣(かずき)を開いて、汗ばんだ顔を見せながら、笑い笑い、問いかけた。
「見なくってさ。」
「あれはね。――まあここへかけましょう。」
 二人は、石段の下の段に、肩をならべて、腰をおろした。幸い、ここには門の外に、ただ一本、細い幹をくねらした、赤松の影が落ちている。
「あれは、藤判官(とうほうがん)の所の侍なの。」
 沙金は、石段の上に腰をおろすかおろさないのに、市女笠(いちめがさ)をぬいで、こう言った。小柄な、手足の動かし方に猫(ねこ)のような敏捷(びんしょう)さがある、中肉(ちゅうにく)の、二十五六の女である。顔は、恐ろしい野性と異常な美しさとが、一つになったとでもいうのであろう。狭い額とゆたかな頬(ほお)と、あざやかな歯とみだらなくちびると、鋭い目と鷹揚(おうよう)な眉(まゆ)と、――すべて、一つになり得そうもないものが、不思議にも一つになって、しかもそこに、爪(つめ)ばかりの無理もない。が、中でもみごとなのは、肩にかけた髪で、これは、日の光のかげんによると、黒い上につややかな青みが浮く。さながら、烏(からす)の羽根と違いがない。次郎は、いつ見ても変わらない女のなまめかしさを、むしろ憎いように感じたのである。
「そうして、お前さんの情人(おとこ)なんだろう。」
 沙金は、目を細くして笑いながら、無邪気らしく、首をふった。
「あいつのばかと言ったら、ないのよ。わたしの言う事なら、なんでも、犬のようにきくじゃないの。おかげで、何もかも、すっかりわかってしまった。」
「何がさ。」
「何がって、藤判官(とうほうがん)の屋敷の様子がよ。そりゃひとかたならないおしゃべりなんでしょう。さっきなんぞは、このごろ、あすこで買った馬の話まで、話して聞かしたわ。――そうそう、あの馬は太郎さんに頼んで盗ませようかしら。陸奥出(みちのくで)の三才駒(さんさいごま)だっていうから、まんざらでもないわね。」
「そうだ。兄きなら、なんでもお前の御意(ぎょい)次第だから。」
「いやだわ。やきもちをやかれるのは、わたし大きらい。それも、太郎さんなんぞ、――そりゃはじめは、わたしのほうでも、少しはどうとか思ったけれど、今じゃもうなんでもないわ。」
「そのうちに、わたしの事もそう言う時が来やしないか。」
「それは、どうだかわかりゃしない。」
 沙金(しゃきん)は、またかん高(だか)い声で、笑った。
「おこったの? じゃ、来ないって言いましょうか。」
「内心女夜叉(ないしんにょやしゃ)さね。お前は。」
 次郎は、顔をしかめながら、足もとの石を拾って、向こうへ投げた。
「そりゃ、女夜叉(にょやしゃ)かもしれないわ。ただ、こんな女夜叉(にょやしゃ)にほれられたのが、あなたの因果だわね。――まだうたぐっているの。じゃわたし、もう知らないからいい。」
 沙金は、こう言って、しばらくじっと、往来を見つめていたが、急に鋭い目を、次郎の上に転じると、たちまち冷ややかな微笑が、くちびるをかすめて、一過した。
「そんなに疑うのなら、いい事を教えてあげましょうか。」
「いい事?」
「ええ」
 女は、顔を次郎のそばへ持って来た。うす化粧のにおいが、汗にまじって、むんと鼻をつく。――次郎は、身のうちがむずがゆいほど、はげしい衝動を感じて、思わず顔をわきへむけた。
「わたしね、あいつにすっかり、話してしまったの。」
「何を?」
「今夜、みんなで藤判官(とうほうがん)の屋敷へ、行くという事を。」
 次郎は、耳を信じなかった。息苦しい官能の刺激も、一瞬の間(あいだ)に消えてしまう。――彼はただ、疑わしげに、むなしく女の顔を見返した。
「そんなに驚かなくたっていいわ。なんでもない事なのよ。」
 沙金(しゃきん)は、やや声を低めて、あざわらうような調子を出した。
「わたしこう言ったの。わたしの寝る部屋(へや)は、あの大路面(おおじめん)の檜垣(ひがき)のすぐそばなんですが、ゆうべその檜垣(ひがき)の 外で、きっと盗人でしょう、五六人の男が、あなたの所へはいる相談をしているのが聞こえました。それがしかも、今夜なんです。おなじみがいに、教えてあげ ましたから、それ相当の用心をしないと、あぶのうござんすよって。だから、今夜は、きっと向こうにも、手くばりがあるわ。あいつも、今人を集めに行ったと ころなの。二十人や三十人の侍は、くるにちがいなくってよ。」
「どうしてまた、そんなよけいな事をしたのさ。」
 次郎は、まだ落ち着かない様子で、当惑したらしく、沙金(しゃきん)の目をうかがった。
「よけいじゃないわ。」
 沙金は、気味悪く、微笑した。そうして、左の手で、そっと次郎の右の手に、さわりながら、
「あなたのためにしたの。」
「どうして?」
 こう言いながら、次郎の心には、恐ろしいあるものが感じられた。まさか――
「まだわからない? そう言っておいて、太郎さんに、馬を盗む事を頼めば――ね。いくらなんだって、一人じゃかなわないでしょう。いえさ、ほかのものが加勢をしたって、知れたものだわ。そうすれば、あなたもわたしも、いいじゃないの。」
 次郎は、全身に水を浴びせられたような心もちがした。
「兄きを殺す!」
 沙金(しゃきん)は、扇をもてあそびながら、素直にうなずいた。
「殺しちゃ悪い?」
「悪いよりも――兄きを罠(わな)にかけて――」
「じゃあなた殺せて?」
 次郎は、沙金の目が、野猫(のねこ)のように鋭く、自分を見つめているのを感じた。そうして、その目の中に、恐ろしい力があって、それが次第に自分の意志を、麻痺(まひ)させようとするのを感じた。
「しかし、それは卑怯(ひきょう)だ。」
「卑怯でも、しかたがなくはない?」
 沙金(しゃきん)は、扇をすてて、静かに両手で、次郎の右の手をとらえながら、追窮した。
「それも、兄き一人やるのならいいが、仲間を皆、あぶない目に会わせてまで――」
 こう言いながら、次郎は、しまったと思った。狡猾(こうかつ)な女はもちろん、この機会を見のがさない。
「一人やるのならいいの? なぜ?」
 次郎は、女の手をはなして、立ち上がった。そうして、顔の色を変えたまま、黙って、沙金(しゃきん)の前を、右左に歩き出した。
「太郎さんを殺していいんなら、仲間なんぞ何人殺したって、いいでしょう。」
 沙金は、下から次郎の顔を見上げながら、一句を射た。
「おばばはどうする?」
「死んだら、死んだ時の事だわ。」
 次郎は、立ち止まって、沙金の顔を見おろした。女の目は、侮蔑(ぶべつ)と愛欲とに燃えて炭火のように熱を持っている。
「あなたのためなら、わたしたれを殺してもいい。」
 このことばの中には、蝎(さそり)のように、人を刺すものがある。次郎は、再び一種の戦慄(せんりつ)を感じた。
「しかし、兄きは――」
「わたしは、親も捨てているのじゃない?」
 こう言って、沙金は、目を落とすと、急に張りつめた顔の表情がゆるんで、焼け砂の上へ、日に光りながらはらはらと涙が落ちた。
「もうあいつに話してしまったのに、――今さら取り返しはつきはしない。――そんな事がわかったら、わたしは――わたしは、仲間に――太郎さんに殺されてしまうじゃないの。」
 その切れ切れなことばと共に、次郎の心には、おのずから絶望的な勇気が、わいてくる。血の色を失った彼は、黙って、土にひざをつきながら、冷たい両手に堅く、沙金(しゃきん)の手をとらえた。
 彼らは二人とも、その握りあう手のうちに、恐ろしい承諾の意を感じたのである。

声明:本文内容均来自青空文库,仅供学习使用。"沪江网"高度重视知识产权保护。当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时,请联系我们,我们将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接。